なぜ「機能的に見えるもの」をすぐに適応だと言ってはいけないのか:サン・マルコ寺院の「スパンドレル」が教えてくれること

こばなし

適応の話をしていると、私たちはしばしばこう言いたくなります。「この行動は△△への適応だ」。これはとても魅力的な説明です。なぜなら、「役に立っていそうに見える形質」と、「淘汰で説明できる形質」が、きれいに対応しているように思えるからです。

しかし、スティーヴン・ジェイ・グールドとリチャード・ルウォンティンが1979年の論文で指摘したのは、まさにこの「きれいに対応しているように見える」というところに落とし穴がある、ということでした。彼らがその落とし穴をわかりやすく説明するために持ち出したのが、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の建築をめぐる有名な比喩、いわゆる「スパンドレル(spandrels)」の話です。

建築上「できてしまう」空間

サン・マルコ寺院の内部には、アーチの上に丸いドームを載せる構造があります。こうした構造をとると、幾何学的な必然として、アーチとドームのあいだに尖った三角形に近い空間が生じます。建築用語でこれを「スパンドレル」と呼びます。ここで重要なのは、この三角形の空間そのものが「最初から目的をもって設計されたわけではない」という点です。ドームを支え、アーチを組むといった主要な構造的要請を満たそうとすると、自動的にこの形の余白が「副産物(by-product)」として現れるのです。ところが、実際のサン・マルコ寺院では、このスパンドレル部分にきわめて美しいモザイクが描かれています。宗教的な図像であったり、きらびやかな装飾であったり、とても手が込んでいます。それを目にしたとき、多くの人はこう考えがちです。「この素晴らしいモザイクを描くために、この三角形の面は用意されたのだ」と。しかし、グールドとルウォンティンが言いたかったのは、まさにこの点です。因果の向きがしばしば逆に理解されてしまう、ということでした。実際には「構造を組んだら三角形の面ができてしまった。せっかくできたのだから美しく飾った」のであって、「飾るために三角形をつくった」わけではないのです。

生物学でも起きる同じ錯覚

この錯覚は、生物学でも同様に起こります。ある形質が現在とてもよく機能しているように見えると、私たちはつい「淘汰が、この形質と機能をつくりあげたのだ」と言いたくなります。たとえば、派手な色や模様をもつ魚を見ると「配偶者を引きつけるための形質だ」と言いたくなりますし、夜明けの特定の時刻にだけ繁殖行動があれば「捕食回避に適応的な形質だ」と説明したくなります。これは、一見したところとても確からしいく見えます。実際、そうした説明が適当な場合も少なくありません。

しかし、グールドとルウォンティンが問題にしたのは、「役立っているように見える」ことと「実際に淘汰の産物」であることが、しばしば区別されずに語られてしまうことでした。建築において「できてしまった面をあとから装飾した」ように、生物においても「他の構造や発生過程の制約から必然的に生まれた形質が、あとになって別の用途に利用される」ということは十分に起こりえます。にもかかわらず、私たちは完成品だけを見て「これはこのための形質だ」と思ってしまう。その思い込みを彼らは「パングロス的パラダイム」と呼んで警鐘を鳴らしました。

なぜ問題なのか

では、なぜこのような「つじつまの合った適応物語」が問題なのでしょうか。

「対立仮説を閉ざしてしまうから」: いったん「ある形質はこの淘汰圧に対する適応的機能である」と考えてしまうと、「実は発生上の副産物ではないか」「遺伝的連鎖(ある遺伝子が別の遺伝子と一緒に受け継がれる現象)や生理的連鎖で一緒に残っただけではないか」「物理的な制約の結果ではないか」といった別の説明を検証しなくなります。つまり、科学としての選択肢を最初から狭めてしまうのです。

「検証可能性が弱くなるから」: 「ある形質は特定の淘汰圧に対する適応である」という物語は、一見それらしくても、しばしば反証の設計がむずかしくなります。似たようなストーリーをいくらでもつくれてしまうからです。グールドらは、こうした「どんな観察にも後づけで適応的説明を当てはめられる」状態を警戒しました。

「副産物」と「適応」をどう区別するか

もちろん、彼らは「適応という概念が間違っている」と言ったわけではありません。むしろ、「本当に適応だと言うなら、そう言えるだけの比較・実験・発生学的検討・系統的文脈が必要だ」とハードルを上げたのです。たとえば、同じ系統内でその形質の有無を比較する、発生過程での制約を明らかにする、サイズや形の物理的限界を評価する、別の機能を説明できるモデルと競合させる、といった作業があってはじめて「これは適応らしい」と主張できる、という姿勢です。逆に言えば、そうした検討の前に「見た目の機能らしさ」だけで適応と決めてしまうのはよくない、ということになります。スパンドレルの比喩が便利なのは、ここを一言で説明できるからです。つまり、「飾ってあるからといって、飾るために作られたとは限らない」ということです。

今日的な意義――なぜ今もこの話が引用されるのか

1979年の論文から40年以上経った今でも、この比喩が教科書やレビュー論文に残り続けているのは、適応の説明が今でも物語化しやすい、適応の証明が実は非常に難しいからです。新しい行動パターンや派手な形態、奇妙な生活史が報告されると、メディアも研究者も「これは何のためか?」と問います。問い自体は健全なのですが、そこで安易に「求愛のため」「捕食回避のため」「共同繁殖を促すため」などと即答してしまうと、スパンドレルの問題にふたたび足を踏み入れることになります。とくに行動のような、環境や発生の制約と絡みやすい形質では、「本当にその淘汰圧の結果として、その形質や機能が進化したのか」を慎重に見分ける必要があると思います。

 

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